マプート便り

【バックナンバー・9】




******************************2008.08*
その55 旅立ち

 8月に入り、夕日が沈む時間が少しずつ遅くなり、日中の気温も上がって来ているマプートです。8月8日に北京オリンピックが始まり、息子もいよいよ日本へ旅立ちました。
 私の先輩で手広く事業を札幌でやっている方が「しばらくであれば面倒見てやるよ」と言ってくれたので甘えることにした。来年の入学期まで自分で方向を決めれば良いと思っている。長い間、このコラムにも息子の事は書いていなかった。
 日本での滞在許可や学校の問題があって、今の今まで伸びてしまった。これ以上、彼を当地に留めておくことは、精神的に良くないと思い、無理を承知で旅立たせることにした。約一年半、日本へ行くことを待たせてしまったのは、親である私の力量不足だと認識している。
 この間、当地の高校に入学して半年くらい通っていたが、やがて表情が暗くなり学校のことも話さなくなった。おかしいなーと思ってある日、彼に聞いてみた。「お前、最近学校へ行ってないだろう」何かの言い訳をすると思っていたのだが。素直に「うん、ここのところ行ってない」との返事だった。
「よし、分かった。学校は辞めろ、嫌なところへ行って勉強しても何にもならないしべらぼうに高い費用を払うのはバカらしいからな」
「ほんとに辞めて良いの、怒らない?」と聞いて来た。
「良いよ、俺だって嫌なところへは行きたくない」と答えたら、急に明るい顔になった。それからは、元の明るいバカに戻った。見栄を張ってわりと上級の高校へ行かせたのがまずかったと反省した。
 後々、彼が学校を嫌いになった理由を少しずつ話した。ほとんどの生徒が白人の子供達で他にインド系の子供でモザンビーク人の子供は、ほんの少ししかいない。そんな中で差別を受け、日本人の親を持っていることで、余計に嫌な思いをしたそうだ。
 そんなこんなで、家にいる時は漢字の勉強をさせていたのだが、根がバカなのでせいぜい小学校4年生程度までしか出来ない。一年くらい前から友達と一緒にヒップポップのバンドを組み、なんだか訳の分からない歌を歌っている。そして、「ねーねー僕、今度CDを出すんだ」と言って、その費用をねだってきた。
「なにを、ヒップだかケツだか知らないけれど、そんな金はありません。金が必要だったら、自分で稼げ」と、はねつけてやったら「会社で使って」と言うので、我が社で雑用をさせて費用を出してやった。だが社員達が息子に気を使うので、早々に我が社での雑用はやめさせた。
 その後、CDは出たのだが私はガンとして聞かない。そうしているうちに、「今週末にライブがあるから見に来て、僕人気があるよ」とか言い出した。
「お前はいつから不良になった。そんな、訳の分からない歌を歌って」と相手にしていなかった。
 しばらくして、日本人の友人達と久し振りに一杯やることになり、友人宅でわいわいがやがやと飲んでいたら、一人の友人が「そう言えばこの間、遠藤さんの息子がテレビで歌っていたけれど、歌手やってるの?」と聞かれた。「え、俺知らない」と答えると、他の人も「あー俺も見た、結構人気あるみたいよ。歌詞の中に日本語も混じっていて面白いよ」と言い出した。「へぇーそうなんだ」としか言えなかった。
 ある日曜日の昼下がり、ぼやーとして家にいたら、知らない女の子3・4人が家のブザーを鳴らした。何だろうと門を開けると、聞いたことのない名前を言い、いるかと尋ねる。
「そんな人は我が家にはいない」と答えると「へんだな、あなたは日本人ですよね」となおも聞く。「そうだが」と言うと「やっぱり、この家だ」と訳の分からないことを言いながら帰って行った。
 後で回りに聞いたら、バカ息子が芸名で歌を歌っていることが分かり、息子を尋ねて家まで女の子が来たのだとわかった。息子に「お前は詐欺師か、変な名前なんか名乗りやがって」と怒ってやった。
私としては別に、息子が歌を歌おうが踊りを踊ろうが反対はしない。本人が好きでやっていることなのだから。何度もコンサートやライブに出ていて私に見に来てと言う。
「そんな訳の分らない歌を聴く暇はありません」と一度も見に行ったことがない。行って見たい気持ちはあるが、何となくこっちが恥ずかしいような気がして行かないが、いつの間にか大きくなったことを実感していた。
 日本へ旅立つ時に隣国の南アフリカのヨハネスブルグ空港まで1泊しながら車で送っていった。車中、男同士これと言った話も交わさず、ぐだぐだと日本へ行ってからの注意事項を一方的に話してしまった。空港で 搭乗手続きをする時に、手続きカウンターで「お前が全部やれ」と横で見ていた。驚くほど流暢な英語で話し始め、おまけに軽いジョークまでカウンターの女性に話しかけやがった。親の自分は、いつもたどたどしい英語でしか手続きが出来ないのにと思ったが、驚いた顔は見せずに「まぁーまぁーだな」と言ってやった。
搭乗口の前で「さー行け」と言ったら急に抱きついてきた。
「馬鹿野郎、周りがホモだと思うぜ」と照れながら言うと「有難うございました、日本へ行ったら頑張るから」と囁いた。
 身長は私より頭一つ上で、肩幅は私を包み込むくらいに大きくなっていた。あんなに小さかった子が。「あの、ゲートまでしか俺は見てやれない。あれから先は一人で頑張れよ、俺は助けてやれないからな」と月並みな言葉しか出なかった。
 見送った帰りの道、一人で600kmの道程を鼻水を垂らしながら菊ちゃんとネコの待つ我が家へと戻った。

******************************2008.07*
その54 アフリカ開発国際会議

 夕方5時前に、太陽が地平線の向こうに沈む季節となり、秋も深まってきたマプートです。
 日暮が早くなるというのは、なんとなく心が寂しいもので、アフリカの地の果てでも、日本でも同じなのだと思う。今年は例年になく寒く、朝夕は暖房が欲しくなる。先日も最低気温が7度で最高気温が18度までしか上がらず一日中寒い思いをしていた。
 このところ仕事が暇で会社にいても、ただふらふらしている。本来であれば、あせって「どうしようかな」と思案するのだが。ハッキリ言って「ふてくされている」。
 何年もこの仕事を続けているが、こんなに売れない年は、はじめてだ。市内を走っている車の数が3年前の5.6倍にも膨れ上がっていて飽和状態になっている。そのうえ、販売業者が雨後の竹の子のように増えているからである。そんな中で、営業力の乏しい我が社の社員達にいくらハッパをかけても売り上げは伸びない。そろそろ、経営の方向転換をしなければならない時期に来ているのかも知れない。
 1ヵ月ほど前から隣国、南アフリカ共和国で外国人労働者の国外撤去運動が過激な民間人により暴力的に行われている。連日、当地の新聞やテレビで報道されているのを見ていると、民間人の青年がライフルや拳銃で逃げ惑う人を撃っている場面もあり、なかには捕まえられ、体に火を点けられ焼き殺されている報道もある。
 連日のように南アフリカから、なけなしの家財道具を車に満載し引き上げて来るモザンビーク人で陸路の国境は大混雑をしている。マンデラ政権の時代に、移民受け入れを大々的に宣言し、アフリカ諸国から移民を受け入れてきた。その結果、現在の南アフリカの失業率は30%台にまでになってしまった。それに加え、最近、隣国タンザニア国での大統領選挙に伴う政情不安で、大量のタンザニア人が南アフリカへと流れ込んでいる。そんなことが重なり、仕事に就けない人達が蜂起し外国人労働者への排除暴動へと発展したのである。タンザニアの人達を保護していた教会が焼き討ちにあい、45名もの人が焼き殺されたとの報道もある。
 これに対して、南アフリカ政府も警察もたいした手も打っていないように見える。法治国家であれば、理由が何であれ人を銃で撃ち殺したり、焼き殺したりすれば殺人罪になるはずだが、暴動側の逮捕者の報道は見たことがない。
 当国でモザンビーク人と一緒に長く住んでいる私としては、南アフリカ政府に対し、非常に腹立たしく思う事件である。
 5月28日から日本国政府が主導して、アフリカ開発国際会議が横浜で開かれた。日本でも大々的に報道されたのでご存知と思う。日本国政府が開発援助目的に、アフリカ諸国に大盤振る舞いの援助金を出すと言うことだ。貧困救済や諸国の道路インフラ、医療援助等々、建前は御立派でもっともだが、日本からの援助金のうち、何パーセントが実質の援助金になるのか疑問に思う。 援助金がどこを経由するかによって異なるが、一番経費がかかると言われているのが国連だ。もちろん、援助計画から援助に至るまでは色々な過程で経費がかかることは理解できる。だが、我々庶民には、とてもじゃないが住めない高級住宅に住み、高級車を乗り回し、高額な報酬を得ている国連職員。同じような待遇で日本国、国民の血税を無駄に使っている日本の海外援助機関。そんな所に予算の大半が回ってしまう。母国を離れ、厳しい環境の中での仕事ゆえに待遇も良くしなければならないのだろうが、それにしても一般人から見れば、たいした結果も出さず、国家、国民の納めた血税で集めたお金を、ばら撒くだけの仕事しかしていないように見えるのは、それほど間違ってはいないと思う。
 今回のアフリカ開発国際会議では、以前当地にいた海外青年協力隊の終了帰国者達が影の協力者として頑張ったと聞いてる。当地での2年間の任期を終えて日本に戻った若者達である。モザンビーク国からも大統領をはじめ閣僚関係者約60名の一行が日本へ行ったが、少数の在日本のモザンビーク大使館員だけでは対応ができなかったらしい。ホテルの手配や電車の乗り方、買い物のお供、果ては日本のNGOとの通訳まで、大活躍だったらしい。日本に戻り以前の職場に戻った者、新しい職場に変わった者、それぞれが忙しい日々の中での協力だったと思う。特に当国の場合、英語やスペイン語ではなく、ポルトガル語が公用語のため、通訳をする人は少ない。2年間、当地で勉強したポルトガル語を日本で活かせたことを嬉しく思う、との彼らからメールで知らされた時は、なんだかこっちまでほのぼのとした気分になった。
 彼や彼女達が当地での任期を終え帰国する時に、特に親しくしていた若者に必ず話す言葉がある。「帰国しても、ポルトガル語を錆つかせるな。もっと磨け言葉は武器だ」。そういう自分はと、問われると返す言葉がない。ずぼらな自分が中途半端なポル語しかできないために、未だ苦労をするという体験を話すだけである。

******************************2008.04*
その53 還暦

4月も半ばを過ぎ、庭のオレンジの実も黄色に色づき、朝夕、気温が下がり過ごしやすい季節になっているマプートです。
ここのところ、NHKの当地向け放送のニュースが気になっています。北京オリンピックの聖火リレーがイギリス、フランス、アメリカ等で、チベットの人権問題で妨害を受けているニュースがひっきりなしに放送されているからです。

もの凄い勢いでアフリカ全体に進出して来ている中国。
先日、昼食に当地に居る海外青年協力隊の若者を誘い車で街はずれを走っていたら、異様なトラックを見かけた。2トン車の荷台に20人くらいの人が乗っている。乗っているのが当地の人であれば何も珍しくもなく普通の光景だが、全員が濃紺のツナギ服で麦藁帽子を深めにかぶり、きちっと整列して荷台に座っているのである。何だろうと思い後方から車を近づけて見ると、東洋人の一行だった。「なんだ、中国人だよ。どこかの囚人かと思った」と思わず言葉に出すと、同乗していた若者が「それにしても、なにか様子が普通じゃないよ」と言い出し、よくよく見ると、やっぱり普通の中国人労働者とは様子が違っていた。
後日、当地モザンビークの北方で日本国の国際援助で橋の工事をしている方とお会いして、色々と国際援助の話をしていた時に。その方がアフリカの他の国で仕事をしていた時に同じ光景を見たと言う。「あれは中国の囚人達ですよ。主に思想犯だそうです」と教えてくれた。物の考え方や主義主張が違って捕まり、こんな地の果てへと連れて来られ労働させられるなんて、本人達はやりきれないだろうと思う。北海道生まれの私は、幼い頃に聞いた話を思い出してしまう。北海道の各地には囚人道路と称する道路がある。明治、大正時代の北海道開拓時期に囚人を使って道路を作った場所である。真っ赤な囚人服を着せられ、重労働をされられていたと聞かされた。ふと、そんなことが重なる。今の人達には信じられないことなのだろうけれど、昔の日本で現実にあったことだ。
隣国ジンバブエで大統領選挙が終わって3週間も過ぎたというのに結果が出ない。ジンバブエ国内は一触即発の状態にある。現大統領は28年にも渡り現職をつとめているが、現職に固執しているのか、82歳になっても辞めようとはせず、選挙のたびに疑惑を持たれ、国が荒廃している。周辺の国は内戦が起きるのではないかとピリピリしているのに、死の商人よろしく中国の船が武器を満載にして南アフリカのダーバン港からジンバブエに武器を運び込もうとして荷揚げを拒否される事件が起きた。ジンバブエは内陸国なので、海岸に面した国から運ばなければならない。ダーバンで荷揚げを拒否され、当国モザンビークの港へ陸揚げを試みたが、いくら何でもありの当国政府も、さすがにこれは拒否した。次にタンザニアへ行き拒否され、大西洋側のアンゴラへ行き、これも拒否されていると当地では報道されている。日本の皆さんは、こういう事件はたぶんご存知ないのだろう。

当地モザンビークは、前回お知らせした暴動も収まり、平穏な日々が続いている。
仕事の方は、あまりかんばしくなく収入もかなり減ってきているが、なんとか従業員には給料も払え、家賃も滞納することなく過ごしている。だが、会社及び個人の預金がかなりの勢いで目減りして来ているのには少し焦っている。と言うのも、なんと自分でも信じ難いことなのだが、ついに還暦を迎えてしまったのである。要するに、先が短くなったと言うことで「将来は」とか胸を張って言えなくなりつつある。普通であれば、定年退職で第二の人生を歩みだす時期でもあり、一つの区切りになるはずだが。日々「お前、アホか?」とか「ぼけーっとしてるな」とかを言い続けている生活で、なんのメリハリもない。
還暦と言えば、我が家の犬の菊ちゃんの乳房にしこりが出来ているのが気になり、掛かりつけの獣医に見てもらったら、乳がんと診断された。生まれた時からのかかり付けの獣医なのに、病院の会員カードを見て「え、11歳にもなるの」と驚いた。
「この国で11歳にもなる犬を見たのは初めてだ」と言い出した。なにを言ってるのだ、この馬鹿医者と思いながら「乳がんは手術で取り除けるのだろうな」と質問すると。「取り除けるが、歳も歳だし安楽死の方がいいのではないか」と言い出した。「この野郎、なんということを言いやがる、殴ってやろうか」と口に出そうになったが、ぐっと堪え「とにかく、取り除いてくれ。それと他に転移していないかを確かめてくれ。費用は多少掛かっても支払うから」と。
その日から菊ちゃんは入院となった。手術は何事もなく成功し他に転移もしていなかったそうで、1週間後に退院してきた。費用は思いきり高くついたが、大事な大事な何物にも変え難い長年のパートナーなので費用のことは言ってられない。犬の11歳というのは人間にすると確実に私より年上になるのだろうが、当国では犬、猫はそこまで長生きはできないのだと言うのがわかった。手術後、菊ちゃんは妙に食欲が増し、以前より太ってきたような気がする。そんな菊ちゃんとの老後とは、なんとなく寂しい。

******************************2008.02*
その52 市民暴動

あっと言う間に、2月が終わってしまった。2月の中頃から俄然忙しくなり、月末には久々に当地の北部へ行ってきた。1日1,200kmを走り切り「まだまだ頑張れるな」と内心喜んでいる。1,200kmといえば東京・大阪間を1日で往復したことになる。
今月は、色々と事件が起きた。まず、2月5日に燃料の高騰のため市民の足となっているシャパ(日本でいうミニバス)の料金値上げがあった。諸物価高騰のおり、市民の不満が爆発し、シャパ料金値上げに端を発した暴動が、市内いたるところで起こってしまった。
その朝、6時頃にメイドさんから電話があり、「近所で暴動が起こり今日は行けない」と言う。私の住んで居る所とはずいぶん離れているので、マプート市内の外れで騒いでいるのだろうと思い、たいして気にもしなかった。出勤途中の道ではバス停に大勢の人がシャパの来るのを待っていたが、いつもの道は何の変化もなかった。何事もなく会社に着き、10時になったので、いつものカフェーを飲みに出掛け、熱いコーヒーエスプレッソをすすり、トーストを食べて外を眺めていた時、携帯が鳴り「あいよ」と、おっとり電話に出た。すると、秘書が悲痛な声で「社長、どこに居るの?」ときた。「いや、いつものコーヒー屋」と答えると「そこから出ないように、今デモ隊が会社の前の通りで暴れているから」。
 えーと思い「分かった」と電話を切ったが、すぐに、出社して愛車センチュリーを洗車するようにと従業員に言いつけ、違う車で来たことを思い出した。慌てて秘書に電話をして「センチュリーを展示場の奥の方へ隠せ」と言ったら「もう隠してある」との返事にほっとした。
 その後、気になるので、裏道を選んで会社に向かうと、主要道路の方角で黒煙が上がっているのが見えた。これは、えらいことになってきたな、と思いながら会社に辿りつくと、周りは騒然として、わが社の隣のコンピューター屋は早々と店じまいし鉄格子を下ろしている。
わが社の社員達は全員、表に出て会社の前で主要道路に向かって行く車を止めていた。その道路を20mも行くと市内一番の主要道路にあたり、信号が付いた交差点になる。そのまま主要道路に出ると、デモ隊と鉢合わせになり、投石されたり車に火を点けられたりする。
面白半分で「ちょっと見てくる」と主要道路に向かい歩き出したら、「行くんじゃない」と怒られてしまった。そうしているうちに1台の車が社員達の制止に気づかず主要道路に出てしまいデモ隊と鉢合わせしてしまった。たちまち車は投石を受け、ガラスが割られ、運転していたおばさんは頭を血だらけにして車から這い出してきた。
 そうこうしているうちに、わが社の大得意の人が当地に来て仕事をしていることを思い出し、急ぎ電話をした。どこに居ますかと問うと「今、教育省で会議中」との返事にほっとし、「そこから出ないように、街中は危険な状況です」と知らせた。
在留邦人には大使館から知らせが行くが、出張で当地を訪れている人には情報は届きにくい。街中はまるで戦場のような様子になり、あちらこちらで黒煙が上がり、緊張した時を会社で過ごしていた。
やがて夕方になり、暴動も落ち着くかと思ったが、ますますエスカレートしていった。庶民の足シャパも全く動けず、一般車輌も通行できない。道路には徒歩で帰宅する人々が、道を選びながら大勢歩いている。自宅へ戻れないので駐車場があるホテルを予約し、その日はでホテルに泊まった。翌日、朝5時にホテルを出て家へと向かった。どうしても自宅が気になるので、早朝ならデモ隊も動いてはいないだろうと判断したのだ。いつもの出勤路には焼けた車の残骸がくすぶり、道路にはタイヤを焼いた跡が幾つもついていて、なかにはまだ燃えている所もあった。
 庶民が怒りを爆発させる気持ちも分からないではない。このところ、物価の値上がりがひどく、給料は上がらず生活はますます厳しくなっている。政府の高官、役人だけが悠々自適の生活をしている。格差が物凄い勢いでついて来ている。街には高級車が走り回り、一部の人間だけが高級レストランへ出入りし、たまに高級なレストランへと出掛けると、以前は見かけることがなかった光景を見ることがある。具体的には書けないが、要は出来るはずがないことが起こっているのである。高級なレストランでちょっとした物を食べると、1人5,000円はすぐに掛かってしまう。現在、ガソリン1Lが39MT、円に換算すると約170円にもなっている。役人の平均給料が高く見積もっても、月額7,500MT、円に換算すると32,740円である。ガソリン20Lも入れると給料の10%が飛んでいく計算だが、不思議なことに車の走行数は減らず、逆に増えていっている。どこでどう稼いでいるのか分からないが、不思議な現象である。
 季節は、ほんのちょっぴりではあるが秋の気配がしてきた。相変わらずの貧乏暮らしで、政情不安な当地での生活が心地よくなってきた最近である。
******************************2008.01*
その51 今年で15年目

遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
今年、2008年1月20日で良くも悪くも、在モザンビーク15年目に入ることとなりました。なんの因果か分かりませんが、とにかく14年間この僻地で生きながられました。
早いのか、遅いのか分かりませんが、時は過ぎていきます。振り返る暇もなく、ただひたすら前を見て過ごしてきたのですが、未だ貧乏神を背負いつつ前へ前へと進まなければならない己がアホに思えます。
思い起こせば、1994年1月3日に日本を出国し当地モザンビークへたどり着いたのが1月20日でした。初めての海外暮らし、言葉も分からず何の当てもなく、友人・知人の意見にも耳を貸さずに、何を言われてもひたすら当地モザンビークへと来たのです。
初めて見るモザンビークの首都マプートは街全体が薄汚れ、空爆を受けた後のような雰囲気でした。ビルというビルは。皆煤けており、道はボコボコで街中ゴミだらけ。繁華街にはボロをまとった孤児や物乞いの身体障害者が沢山いて、夜になると道路の中央分離帯で焚き火をし、そこに仲間同士がひとかたまりなり一夜を過ごしていた。
行倒れて死んでいる人達を何人も見たことがある。そんな時でも当地へ来たことを後悔したことはなかった。それが、現在に至っては「ちょっと間違ったかなー」という考えがほんの少しだけ頭をよぎる時がある。どうしてなのだろうと、自分自身を分析して見るのだが分からない。なんでも歳のせいにするのは好きではないが、これは歳のせいだと思っている。
現在、住んでいるマトラ市から事務所のあるマプートまで通勤している。所要時間は約30分で道路は数年前に完全整備された道路で片側2車線、日本だと3車線くらいの幅がある。
中央分離帯には道路を仕切る金網が張ってあり、歩行者用の横断歩道橋も大きなのが渡っている。でも、モザンビークとは思えないこの道路が、交通事故の多発地帯である。昨年も普通では考えられない事故が起きた。道路に掛かっている4ヵ所の歩道橋の一つが落下したのである。鉄骨製の歩道橋で日本のと比べると多少きゃしゃだけれど、取り敢えず立派な歩道橋の橋の部分が。原因は何だと思いますか? 普通に想像すると、建築時に取り付けがまずかったのではないかと考えます。ところがモザンビークでは、そんな常識は通じないのです。原因は道路を通行した大型ダンプカーが後ろの荷台を上に上げたまま走行し、橋桁に荷台がぶつかり歩道橋が落下したというわけです。この事故で歩道橋を歩いていた人8名が橋と共に飛ばされ2名即死、5名が重傷を負った。
道路の中央分離帯に張ってある金網の所々には、穴が開いている。近所に住む人が歩道橋を渡らずに道路を横断するための穴で、危険極まりない。ここは街中の混雑を過ぎた車がいっせいにスピードを上げて走る所である。制限速度は60kmだが、そんなことはお構いなしに平均100kmで走る。まだ昼間は見通しがよいが夜になると街灯もなく車のライトが頼りになる。中には無灯火で走っている車も沢山あり、横断する人がしょっちゅう事故に遭い亡くなっている。
今の時期、暑いので人も薄着と言うか、男の人は上半身裸で歩いている人が多く、そんな人が道路を横断していても闇夜のカラス状態で遠くからは見えない時がある。
私自身、日本に居たときも当地でも、違反はともかく、事故を起こしたことは殆どない。ところが、先日、出勤途中の交差点で大型トラックに追突された。大きな交差点で、なんら事故を起こすような所ではないのに、ドーンと追突して来たのである。大型トラックの運転手が下りてきて、まず自分のトラックの前方の様子を見ている。私の方は乗用車の後部が丸つぶれでバンパーは落ちてしまっている。頭に来て「この馬鹿野郎、どこを見て運転しているのだ!」と怒鳴り相手の肩を小突いてやった。そうしたら、小突いたのが悪いと騒ぎ始め、自分が追突したことは全然、気にもしていない様子には驚いた。警官を呼ぼうと携帯を掛け始めたら、どこからともなく警官が現れて、ぎゃーぎゃーと小突いたのが悪いと騒いでいる男に一言「あんたが悪い、小突かれたと言っても痛くも何ともない。私は全部見ていた」
事故状況の図を警官が書いて、警察署へと行き相手側が事故修理代を全額当方へ支払うとの誓約書を書くために書類を当方と相手の運転手に渡して寄こした。私の方は当社の番頭が警察署へと駈けつけていたので、必要事項は番頭が書き込んだ。ところが、相手の運転手は字が書けないと言い出した。私は思わず「まさか?!」と絶句してしまった。
当地でも一応、自動車学校へ行き実地と法規を勉強して、試験を受け免許をもらうシステムになっている。まぁー、殆どが金で免許を買っているのは承知していたが、字を読み書き出来ない人が免許持っているなんて、しかも大型免許をである。
事情聴取している警官に「こんなの、ありなの?」と聞いて見ると警官はニヤニヤとしているだけである。
警察署を出た後、番頭が「事情聴取していた警官の家で、今夜はパーティーだな」と一言。 お分かりでしょうか。「見逃してやるから、幾ら払う」の交渉は私達が出た後で始まるのです。こんな国で15年目が始まるのです。信じられるのは、我が家の犬の菊ちゃんと猫のネコだけです。

******************************2007.12*
その50 マプートの繁華街2


暑い日が続かなければならないのですが、2日続いたら4日間曇りか雨模様のが続いているマプートです。変な天候のためか自宅のプールに藻が大量発生しプールの水を取替え、中を清掃し大変な出費を強いられた。どう考えても貧乏人はプールのある家には住まない方が賢明だと悟った。汚れたままの水を見ると、どうにも気になるもので何とかしようと思ってしまう。

前回に続きマプートの繁華街ですが、いつものごとく朝10時くらいからカフェテラスへ出掛けぼんやりと過ごす時間が楽しみになって、仕事がどんなに立込んでいても、人と面会する時間は10時から約1時間は会わないようにして組み立てるようにしている。
これは、数十年前に勤務していたトヨタ自動車のディラーでのトラウマだと思う。
その昔、花のカーセールスマンだった頃の話である。朝出勤してミーティングが終わると、それぞれ営業に出かける。真面目に朝から営業する者は少なく、ほとんどの営業マンは気に入った喫茶店へと直行しマンガ本に没頭しコーヒーを啜るのである。その間に「今日はどこに売り込みに行こうか」と考えるので、真面目に動き始めるのは午後になってからとなる。マネージャーや経営者としては甚だ迷惑な話だが、これが結構よいひらめきが出るときがあった。
その癖が数十年経って出て来たのである。ぼんやりしながら考え事をしていると結構良いアイデアが出たり、あれはこうしようとか思いがめぐるのである。相談相手のいない私にとっては貴重な時間となっている。
店に車で近づくと例のごとく路上で駐車スペースを確保している自称ガードマンが手招きする。車を止めると、いっせいに物乞いや物売りが殺到する。それをかき分け店に入り、いつもの席に着く。待ってましたとウェイターが灰皿を持って来て、いつものエスプレッソコーヒーのWにミルクとトーストを持ってくる。黙っても持って来るようになるまでは、かなりの忍耐と努力が必要だったのは、日本の皆さんは理解できないだろう。ここのトーストは厚さ約3cmもあり、店自体でパンを焼いているので美味しい。それが2枚たっぷりとバターを塗ってあり1枚食べるとお腹がいっぱいになってしまう。私としては残った1枚のトーストが問題になる。日本にいた時や一時帰国した時には、残したまま店を出る。店の人に「持って帰るから何かに入れて下さい」と言ったら「たかがトースト1枚くらいで」と変人扱いされるのが普通だ。
外から見る日本は、食に関しては異常だと感じるのは、外国に住む日本人で私だけだろうか。自慢じゃないけれども、我が家にある日本製レトルトの豆腐の賞味期限は2006年10月となっている。たまに冷奴などにしたり味噌汁に入れたりしているが、なんて事はない。
今、日本では賞味期限改ざんや、表示してある食品と中身が違う事で問題になっていると聞く。表示してある物と中身が違うのは犯罪だと思うが、賞味期限を1日や2日延ばしたというのはその担当者や経営者の「もったいない」という意識が、経費節減という意識よりも先に出たことの表れではないかと思ってしまう。
話は元に戻るが、店を出る時に残ったトースト1枚を紙袋に入れてもらう。車に寄って来る物乞いの人に「これ食べな」と渡すのであるが、いつもその時に罪悪感を感じてしまう。「自分の食べ残しを人にあげて恥ずかしくないのか」とか「偉そうに食べ残しをあげて、驕っている」とか思ってしまう。
そんな時「まだ食べられる物をもったいないから」と自分に言いきかせるのだが、なんとなく後味が悪い。こんな気持ちになるのは小さい時からの親の教えがあるのだろう。まさに三つ子の魂百までもである。
前回、紹介した露出して金をねだる輩が最近いないので、顔なじみの物乞いの人に聞いたら「裸でうろうろしたから、蚊にでも刺されマラリアにでもなったのだろう」と言っていた。なんとなく気になる。いつも感じることだが、当地のハンディキャプの物乞いの人達は明るいと言うか、逞しいと言うか「俺は体が不自由なんだ、だから正常なお前は金を寄こせ」と言わんばかりの勢いで来る。この勢いで来られると「正常ですみません」と思わずお金を渡してしまう時がある。でも、その方がこちらも気が楽である。機嫌の悪いときには「だからどうした」と言える気楽さがあるからである。
少し前のことだが、店からわずかばかり行った片側2車線の道路を、両足の無い人が這って横断しようとして、突然右側の分離帯から出て来たことがあった。幸い車が少なく、私は車線の右側を通っていたのですぐに車を止めたが、左側の車線に車が来たら、私の車の陰になり引いてしまいかねない。すぐに車の左側のドァーを開け前方を塞いだ。後ろから来た車は何事かと止まったが、事情が分かると「有難う」と大きな声で言ってくれた。
その人が道路の中央まで来た時である、歩道にいた一人の青年が駆け寄り、その人を抱き上げ歩道まで運んだ。その青年の白いワイシャツが泥でひどく汚れてしまったのが印象的で、その日一日ほのぼのとした気持ちで過ごせた。



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