マプート便り

【バックナンバー・8】


******************************2007.10*
その49 マプートの繁華街


10月も残り少なくなったが、天候が良くない日が続いている。例年ならば、晴天で暑い日が続くのだが、今年は雨模様で気温の低い日ばかりである。
雨季の時期は1月から2月にかけてだが、おかしな天候が続くので社員達に聞いてみた。社員達の話だと来年、1月か2月には2000年の時のような大雨が降るとの噂である。引っ越した家が低い土地にあるので、今から噂が本当でないことを祈るだけである。
貧乏人が、身分不相応な広い敷地の家に住みだすと何かにつけ戸惑い、余計な出費を強いられてしまう。庭の芝生の手入れやプールの清掃及び浄化装置の手入れ等々、まったく疲れてしまう。

数ヶ月前から、出社して10時前後に街の繁華街の一番賑やかな通りに面しているカフェテラスで、毎日モーニングコーヒーを飲むのが癖になっている。事務所でなにかと腹を立てながら飲むまずいコーヒーよりも一人でぼんやりと飲む方が気が休まる。 道路沿いの決まった席に座り、濃いエスプレッソコーヒーをすすりながら、ぼんやりと道行く人を眺めるのである。店には顔なじみの客がいて「おはよう」とか「元気?」とか声を掛け合う。色々な人種の客がいて、ほとんどが白人。やはりポルトガル人が多く、次ぎに南アフリカ人、フランス人等で現地のモザンビーク人はめったにいない。たまには韓国人の夜のお姉ちゃんが、夜のお勤めを終え、寝惚けた顔をしてコーヒーを飲んでいる姿もある。
通りには沢山の物売りがいて、道路の中央分離帯には木彫りの民芸品を数多く広げて、観光客へのお土産品を売っていて一種のバザールのようになっている。また、色々な日用品を持てるだけ持って歩きながら売っている人もいて賑やかな場所だ。タバコ売り、携帯電話のクレジットカード売り、サングラス売り、新聞売り、電気のコンセント売り、DVDの海賊版売り。このDVDの海賊版は重宝である。以前に日本とアメリカで同時上映された映画「硫黄島」の日本語版DVDを、封切り後まもないうちに売っていた。日本へ戻ったら買おうと思っていたので得した気分だった。
その他多種多様な物売りがいる。その中に混じって目の不自由な物乞いや足を地雷でなくした物乞いの人達もいる。コーヒー一杯を飲みに行くにも、車を止めてから店に辿り着くわずかな距離も、物売りや物乞いに囲まれて大変だ。
街中ではほとんど駐車禁止区域はなく、交差点内でも車の行き来に邪魔にさえならなければ駐車しても問題ない。
そのかわり、賑やかな場所に路上駐車する場合は、車を見張ると称してチップをねだる輩が必ずいる。道路端に少しでもスペースが空いていると、手招きをして車を誘導する。路上駐車をするのだから手招きなぞしてもらいたくないし、ましてや誘導する人の駐車場でもない。手招きをされるたびに「お前の駐車場ではないだろう」と心の中で悪態をつく。
そして車を止めると必ず「俺が見張っているから」何度も言ってくる。そんな時には無視して何も言わずに車から離れる。その後、車に戻ると、遠くの方からその見張りが走って来て「見張っていた」と何がしかの金を要求するのである。
そんな時はいつも「馬鹿、あんな遠くにいてなにが見張りだ」と怒鳴りつけて、その場を去る。でも、いつもこれをやっていると、車に悪さをされることがあるので、3回に1回くらいは多少のチップは払ってやる。
と言う訳で、コーヒーを飲みに行くだけで、ポケットには小銭を沢山用意しなければならない。店のウェイターへのチップ、道路に居る物乞いへの小銭、車の見張りへのチップ、と慣れないと大変だ。
体に障害がある物乞いの人達は気の毒とは思うが、毎日お金をやっていたら、こっちが気の毒になってしまう。
一度、ほんとにえらい目に合わされたことがあった。いつものようにコーヒーを飲み終わり、しばらく道行く人達を眺めぼんやりとして、さて事務所に戻ろうと店を出て歩き出すと目の前に立ち塞がる人がいる。なんだろうと思い見ると暑いのにロングコートを着た男である。そして、いきなりコートの前を空けた、全裸である。見たくもないものを見せられてしまった。日本によくいる変態ではないことはすぐに理解できた。男の私にそんな物を見せても、どってことないのだから。
うつむき加減に横をすり抜けようとしたら、体ずらし前を遮る。右に行こうとすれば相手は左にずれ、左に行こうとすれば右に。と標準以上の一物をぶらぶらさせて前を遮る。まわりの通行人は足を止め、にやにやしながらこちらを見ている。
「全く、朝から頭に来る、なんで俺なんだ」と思いながら、気がどこかへ飛んでいる人間を張り倒すわけにもいかずポケットを探ると小銭が無い。仕方なく日本円にして約500円相当の紙幣を上げた。すると思わぬ金をもらったせいか「ありがとう、ありがとう」と何度も言い出し握手を求めて来た。
「いいから、早くどけ。でかい物を見せつけやがって」と思わず日本語で怒鳴りつけてしまった。それからと言うものは店を出る時には必ず回りを見て、例の人物がいないのを確かめてから車に戻ることにしている。どうやっても気が飛んでいる人には勝てないのである。こんなことにまで、注意を怠らずに生活しなければならないのが発展途上国、特にアフリカでの生活なのだろうと思う。

******************************2007.09*
その48 引っ越し

 このところ、コラムが遅れ気味で申し訳ありません。
 以前から体調が悪く、どう考えても糖尿病の傾向があり精密検査のために急遽帰国して、日本で検査・検査の日々を過ごしておりました。結果、やっぱり糖尿病と診断されました。危ないところで食事療法でなんとか現状維持できると医師に言われ、ほっとするというかガックリするというか、中途半端な気持ちです。その他にも色々と検査し、リハビリを終え当地へ戻ったらもう8月を過ぎてしまい、慌てて溜まっている仕事をこなしている現状です。

 さて、戻ってみると当地、やたらに物騒になっていて驚いた。8月中だけでなんと警察官の殉職が10名にもなっていた。銃器を使った犯罪が頻繁に起き、携帯電話の販売店や銀行、車輌の窃盗に拳銃やライフル、はては機関銃まで持ち出し警官と銃撃戦を起こし逃走するという。まるでアメリカのアクション映画のようである。中には、銀行を警備していた警官を襲い、警官の持っていた機関銃を奪い、それで銀行を襲ったと言うツワモノも出る始末。
 犯人のほとんどは外国人で、特にナイジェリア人と南アフリカ人が主で、モザンビーク人は手先の役目でしかない。ところが、警官との銃撃戦ではモザンビーク人は前に出され、ナイジェリア人らはその隙に逃亡してしまう。撃たれて死亡するのは、いつも手先のモザンビーク人。元々モザンビーク人の盗人は、荒っぽい事はせず、せいぜいこそ泥程度なのだが、上手く利用されてしまう。

 9月の始めに約5年間住んでいた家を、大家さんの都合で引越しなければならないことになり、急遽引っ越した。好きな家だっただけに、後ろ髪を引かれる思いで犬の菊ちゃんと猫を抱いての引越しとなった。
 今度の家はマプート市内ではなく、マプートから約15kmほど離れたマトラ市という所で、元々1975年以前は高級住宅地であった所である。マプート市内は家賃が高騰し、前の家と同じ家賃(月1,000us$)では見つからないので、通勤には多少時間がかかるがマトラ市にした。
 昔、高級住宅街だったので家の敷地がべらぼうに広く、今度の家には小さいながら庭にプールもあり、他には鶏舎も大きな犬小屋まである。ただ、築40年は過ぎている家で、大きい分、メンテナンスが大変で金が掛かる。各部屋には旧式のクーラーが付いてはいるが、スイッチを入れると「ゴー」と凄まじい音がし、クーラー自体が走り出すのではないかと思うほど凄まじい。プールも、何とか使えるようにメンテナンスをするが、これが素人では考えられないくらいに金が掛かる。今度の家で一番よろこんでいるのは犬の菊ちゃんで、猫は家から一歩も庭に出ない。
 家が広い分、部屋や門、別棟の部屋などの鍵が山ほどあり、どれがどれだか判らなくなり、机の上にほってある。この地域では広い敷地の家がたくさんあり、ずいぶんと長い間荒れ放題で廃墟同然だったが、ここ数年で手入れが始まり、外国人が多く住むようになっている。だが、敷地が広い分だけ警備が必要となり、我が家の敷地の周りを囲む塀の上には鉄条網が張られ、その上に二万ボルトの電流が流れる電線が張られていて、門は二重になっている。
 家を借りる時に大家は何も言わなかったが、実際には電線はどこかで断線しているみたいで電流は流れていない。ハッタリだけの電線である。ガードマンやメイドさんが住める離れも付いているのだが、そんなのを雇うのもめんどうだ。
 メイドさんは以前からの人に来てもらっているが、ガードマンはやっぱり警備上必要になる。ガードマンのいない家だと一週間もしないうちに周りに知れ渡り危険極まりないが、問題は人選である。変なのを雇うと、そのガードマンが手引きして泥棒を入れてしまう可能性があり、大きな警備会社からの派遣ガードマンでも素直には信用できないからである。
 以前、某商社で大金が入った金庫が持ち去られたのも、モザンビークで一番大きな警備会社の派遣ガードマンが手引きして盗んだのである。ガードマン及び警官イコール泥棒と言うのが定説になっている。
 番犬の方が気を使わなくていいと思うが、菊ちゃんでは番犬にもならない。それに、新しく大型犬を飼うとしてもまともな血統の犬がいるのかどうかも怪しい。菊ちゃんをペットショップで買った時も「マルチーズの子犬」と言われ買ったのだが、大きくなったらマルチーズではなくプードルの小型犬だった。
 いっそのこと南アフリカのペットショップからライオンの子供でも買おうかと考えてしまう。南アフリカに長年住んでいる親しい友人が教えてくれたが、南アフリカのペットショップに頼むと、日本円にして約60万円くらいでライオンの子供が買えるそうだ。どうせなら、チータが欲しいのだが…。
 とにもかくにも、落ち着かない日々を過ごしているが、もう少し経てば落ち着くだろうと気長に構えることにしている。落ち着いたら、鶏舎には鶏を飼い、毎日新鮮な卵を取り、小さな畑には季節の野菜を植え、暑い日が来たらプールに菊ちゃんと浸かりボケーっとでもしていようと思っている。

******************************2007.05*
その47 夢の車

 五月も仕事で慌しく過ぎてしまい、はや六月となってしまった。
 季節からいうと初冬にあたるのだが、今年は寒くなるのが早く、平均気温が19度から22度くらいの日が続いており、南国で長く住んでいるとこれくらいの気温でも寒く感じてしまう。
 軍隊の火薬庫の爆発以来、事件らしきものは起きてはいなかったのだが、先日、農業省の建物が火災で焼けてしまった。平日の午前中に出火し建物の3分の2を焼失した、出火原因は現在も分からない。またもや噂だが、農業省の役人が汚職の証拠隠滅を図り火を付けたとの話がまことしやかに伝わってきた。ありえる事ではある。
 先日の火薬庫の爆発原因も未だ分かっていないが、新説が出て来た。以前から火薬庫に勤務する兵隊が大砲の弾の信管を外し中の火薬を取り出し、それを袋詰めにして南アフリカの銃器販売会社に密売していたという。火薬庫の周りには牛の放牧場があり、そこの牛を運搬するトラックに積み込み火薬を持ち出していたそうである。これは事実で、実際に関わっていた人から聞いたことがある。火薬は密閉物に詰め、火を付けなければ爆発はしない。粉の火薬に火を付けてもパァーと燃えるだけである。その火薬を小分けして乗用車に隠し、南アフリカまで持って行き、馴染みの銃器販売店へ売る。兵役に付く兵隊達が、代々小遣い稼ぎにしていたそうだ。
 この砲弾から信管を外すにはかなりの熟練と経験が必要なのだが、新兵が見よう見まねで信管を外そうとして失敗し爆発したというのである。
 話を総合的に聞いていると本当のような気がして来る。ただ、笑えるのは実戦で大砲を撃とうとしたら、火薬のない弾が飛んでいくはずがなく、その時はどうするつもりなのだろう。

 話は変わるが、先日、何年も前から欲しかった車をとうとう手に入れた。商売上、個人の車というものは持っていない。販売用の車をとっかえ、ひっかえ乗り回していたのだが、今回、初めて憧れの車を日本から取り寄せた。中古だがトヨタセンチュリー(1994年式)という車で、日本では最高級車の部類に入る車である。日本の友人が骨を折って探してくれたのである。中古車市場には沢山あるのだが、個人の所有車でガレージに保管されてあり、ボディーに傷が無く走行距離の少なく、室内は極上に綺麗な車という私の希望に苦労したらしい。その条件にピッタリの車が届いたのである。モザンビークで初めての車だろうし、南部アフリカ大陸でも初めてだと思う。
 この車を欲しいと思い出したのは今から6年も前のことである。我が社に、創立以来から勤めている運転手がいて、彼は一文無しになった時代もよく知っていて、どんな時でも元気をくれた大事な社員である。会社が上手くいかなく、彼に「どうしようか?」と問うた事があった。彼は「大型トラックを月賦でもいいから買って、2人で運送を始めよう」と言った。私は彼となら、それもいいなと思ったほどである。
そんな彼なので楽な仕事をと思い、日本の某団体へ出向で運転手として出していたが、変なトラブルに巻き込まれ、我が社に戻ってきた。
 その彼に日本の最高級車を運転してもらいたいのである。そして後部座席によれよれのGパンを穿いた私が乗り、ちびたサンダルに杖を持ち、当地で一番高級なホテルへと車を横付けする。ドアーマンにドアーを開けてもらい、よたよたと出て行き注目を浴びる。そして、ティールームでコーヒーを一杯飲み、また、よたよたと玄関に横付けした高級車に乗り込む。これをやってみたいのである。
 車は来たが、彼は7月まで北方の都市に出張中なので、帰ってくるまでお預け状態だ。彼が戻るまで他の運転手には触らせてはならずと、洗車やワックスかけも自分でやっている。
 社員達は興味津々で隙をみては触ったりボンネットを開けたりするのだが、「触るんじゃない!」と一喝する。普段は自宅のガレージに大事にしまってあり、土日の休みの日だけ、それも天気の良い日だけ乗り回している。子供がおもちゃを与えられたかのようにウキウキしながら運転しているのだが、長年、自動車に携わってきた私でもV8気筒4,000ccのエンジンの馬力には驚かされる。それに日本車の特徴といえる燃費が排気量の割りには凄く良い。1L当たりの走行距離が平均7.5kmも走る。社用で使っている4輪駆動車が3,000ccで1L当たりの走行距離が平均8kmであるから、いかに燃費が良いか分かる。
 見ばえでも今時の最新型の高級車に引けをとらない。当地を走っているメルセデスベンツの高級車と並んで走っても我が車の方が周囲の目を引く。購入価格は新車ベンツの10分の2ほどで購入したが、こんなに優越感を味わえるとは、やはり日本車だ。
 我が社の展示場に並べて置いたら、すぐに「値段はいくらだ?」と客が来た。日本円で「400万円だ」とふざけて答えたら、次の日に売って欲しいと来たからびっくりした。
「これは私個人の車だから売らない」とそっけなく答えてやったら、かなり粘られた。
 出張中の運転手が戻ったら、彼用に制服と制帽と白い手袋を揃えてやり、私は古着のGパンと杖を探し、まず会社でリハーサルをやり、それから高級ホテルへと乗り付ける予定でいる。あーあ楽しみだ、早く7月になり彼がマプートへ戻って来ないかなー。

******************************2007.04*
その46 爆弾庫の爆発

先月の後半より半月以上も仕事で地方へ行って当地を留守にしていて、このコラムも慌てて書いている次第です。
3月20日頃だったか、マプート市内にある軍の火薬庫が爆発してえらい騒ぎになった。日本でも報道されていたが、死者約90人を超え重傷者も300人を超える犠牲者が出た。天下の読売新聞も朝日新聞も適当なもので犠牲者の数が食い違っている。ろくに取材にも来ず、電話で取材しているから数が合わないのだろう。全くいい加減なものだと思う。
爆発の原因は70年代から貯蔵してあった砲弾が熱さのため爆発したと当地では報道されている。でも、昨日の気温は30度程度で、そんなに猛暑というわけでもなかった。
夕方の4時頃に爆発が始まり爆発が終わったのは8時頃だった。最初は小さい音で雷かなと思っていたら段々と音が大きくなり、ドーンと音がするたびに事務所のガラス窓が揺れだした。マプート市内の高層アパートも爆発が起きるたびに揺れるので、住人達は皆、道路に非難していた。商店街のショーウィンドのガラスが多数割れて、結構な被害が出ている。弾薬庫がある場所からは、我が社の事務所も商店街も距離にして約20キロは離れているのだが、大砲弾薬や迫撃砲弾の威力というものは改めて凄いものだと認識した。爆発が起きるたびに、弾丸や砲弾が滅茶苦茶に飛んで行くのがテレビで中継されていた。
怪我人が次々と市内の中央病院に運び込まれて行くのもテレビ中継され、ほとんどが重体で中には下半身が無くなっている遺体も映し出されていた。我が家は中央病院のすぐ近くなので、歩いて様子を見に行った。修羅場というのはこういうことかと思うほどの大勢の怪我人がトラックの荷台に積まれ運びこまれていた。
次の日、テレビのニュースで大統領が外遊を急遽取り止め、入院している人達を見舞っているシーンが映し出された。大統領が怪我人の一人に近づいて「大丈夫ですか?」と声を掛けた。すると、その怪我人が「お前達、政治家がいつまでも古い砲弾をほって置くから、こんなことになってしまったんだ。大統領なんか辞めてしまえ!」みたいなことを大統領に向かって言ったのには驚いた。後日、うわさでは弾薬庫の見張りの兵隊が炊事のために火を使ったのではないかと聞いた。有り得ることだが、周りに居た兵隊は皆吹き飛ばされてしまい、生存者はいない。怪我をした人や死亡した人達への補償は今のところ何も無い、何と言う情けない国家なのだろうとつくづく思う。政治家や政府の役人は何ごとも無かったように過ごし、緊急の医療処置をした保健省の役人ですら賄賂を集めることにやっきになっているだけで、国家国民のためにと思う人は皆無なのだろうか。
アフリカ全体に言えることだが、悲しいくらいに人の命の価値が低い。日本で平和に暮らしている人々に人の命の価値が低いと言ってもピンと来ないだろうからあえて書いてみる。
先日の北陸の地震を例にとってみると、災害で家を無くした人や崩れそうな家の人に避難所を作り、そこへ避難してもらう。また、怪我をした人を救急車で病院へ運び、手厚い看護をうけさせる。避難所生活が、たかだか5日間も続いたら、医者が来て無料で健康診断を行ってくれる。その他、やれ仮設住宅だの生活の保障だのと、天国みたいな保護が与えられる。
ところが、当国では、一切の保障、国からの援助は無い。たとえ国の軍隊の火薬庫が爆発して被害を被って怪我をしても、死亡しても、ただただ泣き寝入りしかないのである。
それほど、本人達も周りも諦めきっているのである。家を吹き飛ばされても、建て替える経済力もなく、粗末な小屋を作り、そこでの生活を余儀なくされる。
最近、アフリカの人々を実験台にしている欧米の製薬会社の陰謀を描いた映画をDVDで見た。途中から何がしか思い当たる事が出てきたのは確かで、現実に有る事だと確信している。先進国での人の命の価値が100とするとアフリカの途上国の人の命の価値がどのくらいのものかは測るすべもない。
先日も息子の従兄弟がエイズで死んだ。まだ21歳の若さで逝ってしまった。よく息子と遊んでいたから、私もその子を小さい時から知っていた。HIVと診断され国からの援助で進行をくいとめる薬を飲んでいたが、粗悪なコピー薬なのか副作用がきつく、飲むのを本人が拒否していたそうだ。その結果死に至ってしまった。そんな粗悪な薬しか援助してもらえない。それほど、人の命の価値が低いのである。
私は国際援助機関の人間でもなく、神父でもない。でも、何とかならないものかと考えてしまう。幼い子供達が災害や事故、伝染病等で命を落としてしまう。それを、寿命だとか、生まれた国が悪かったとかで済ませるのは、あまりにも悲しすぎる。

******************************2007.03*
その45 超極貧国で文無しになる

あっと言う間に2月も終わってしまいました。
連日、暑い日が続いているマプートだが、2月の中頃にモザンビークの中央をハリケーンが襲い、ザンベジ河流域で水害が起き、多数の家屋や人が犠牲になったことが報じられている。同じ国に住んでいるのだが、首都から2500kmも離れた所で災害が起きていても首都近辺に住んでいる人達にはピンとこないようで、たいした話題にもならない。
1月の後半に駆け足で日本へ行ってきた。わずか9日間の滞在で、東京、札幌と休む暇なく動き回り、しまいには風邪を引いて、実家で寝込んでしまった。
日本ではあまり報道されなかったが、モザンビークの大統領が訪日し、天皇陛下に拝謁し安倍総理とも会見をした。日本とモザンビークの国交30周年を記念しての訪日で、それに伴いモザンビーク国への投資を誘致するセミナーも開催された。そのセミナーに出るのも目的の一つで、とにかく大忙しの日本行きだった。
投資を誘致するセミナーでは、当国の産業人や閣僚など30名ほどが訪日し、各分野での誘致を行っていた。演壇に立ち、当国の素晴らしさをアピールするのだが、内情を知っている私は、「それは違うだろう」とか「そんなこと言って大丈夫かいな」という内容だった。
モザンビークで唯一大儲けしている外国企業のアルミ生産工場がある。南アフリカ、オーストラリア、日本の企業が共同で経営しているのだが、その日本の商社の代表が、質疑応答の時間に質問を受けた。
「モザンビークの労働者は良く働くのでしょうか?」
この質問に、どう答えるのかと楽しみに聞いていると、「それなりに素直で良く働く国民性です」と答えた。
思わず「そりゃー嘘だろう」と声が出そうになった。まぁー、居並ぶモザンビークの大蔵大臣や外務大臣、ましてや大統領を前に「理屈ばかりいって働きません」とは、口が裂けても言えないのは分かる。が、そんな愚問をする人の方がおかしい。
アジアの発展途上国には勤勉な国民性の国もあるが、アフリカ大陸に関しては勤勉と言う言葉はないに等しい。

このところ拙著『モザンビークの青い空』を読みましたとメールをくれる人が多くなった。最近は仕事が猛烈に忙しくなったので、深夜、メールを開いて読むのが唯一の気分転換である。遠い昔に書いたような気がするので、メールを読むと初心を思い出す。
たいていの方は「凄い事していますね」とか「根性がありますね」とか感心してくれるのだが、私自身は単純な馬鹿者で、人一倍の負けず嫌いの根性を出し過ぎて、帰国のタイミングをはずしてしまっただけである。
以前に、一度味わった一文無しになるのが怖く、二度とあの悲惨さを繰り返したくないという思いで、日々必死になっているだけである。極貧国で一文無しなるということは、悲惨なぞという言葉をとっくに通り越してしまい、道端に座り込んでしまいたい気持ちになる。
家賃の滞納はもちろん、電気だけは怠慢な電力会社職員のおかげ止まってはいなかったが、食い物がない。ある時、卵が2個だけの時があり、目玉焼きにでもしようとしたが食用油がない。道端で小さなビニール袋に油をいれて売っている子供に「後で金を持ってくるから」と付けで買って目玉焼きを作り飢えをしのいだことがあった。わずか100ccくらいの油で日本円にすると2円くらいだったと思う。
不思議なことに、そんな時でも「もはや、これまで」とは思わなかった。いつも「何とかなる、何とかしよう」と思いつつ頑張ると、なんとかなるもので、現在まで生き延びている。
「人間、もはやこれまでと思ってしまうと、石に躓いても死んでしまう」と言われるが、本当にその通りだと思う。
本来であれば「もう、駄目だ」とか「もう、どうしようもない」とかを経験せずに過ごせる人生が一番良いのだが、私の場合、なにをとち狂ってしまったのか人生後半にかかってから超極貧国に来てしまった。誰に文句を言えるわけでもなく、自分で選んだ人生なので後悔はしていない。
今は、仕事の量が増え、以前のように日々の生活には困らなくなってはいるが、心に余裕ができない。毎朝、8時には出社するのだが、社長の私が一番早く出社している。社員共は早くて8時15分、とんでもない奴は9時を過ぎてから出社して来る。呆れて最近は怒りもしなくなった。怒っても血圧が上がり健康に良くない。
給料から遅刻分を引くと、文句を言いに来る。
「給料をまともに貰いたかったら遅刻するな」と怒鳴り散らしても、次の日からまた同じように遅刻して来る。こんなのばかり相手にしていると、老いてる暇もなく、逆に体に良いのかもしれない。
余談だが、当国で1970年代から当国との合弁会社を経営していた日本の大手水産会社が、とうとう見切りをつけ撤退することになったと聞いた。確認はしてはいないが、もっともな話だ。それが本当の話だとするとモザンビークで商売をしている日本人は、私が唯一となってしまう。なんとも寂しい話だ。

******************************2007.01*
その44 マプートの年始め

12月31日から天候が悪くなり新年は雨で始まった。連日暑い日が続いていたので涼しく過ごしやすい。当地で迎えた13回目の新年だが、ここまで回数を重ねてしまうと感激や特別な思いがなくなる。
当地はクリスマスがメインで正月はあまり祝わない。休みも12月23日から25日まで、新年は1日だけが休みで、後はカレンダー通り。我が社は12月28日で仕事納め、1月2日から仕事と何のメリハリもない年末・年始である。
毎年、年末のクリスマスにかけ物騒な事件が起きるのだが、今回はあまり聞かなかった。ただ、交通事故は例年のごとく凄まじいのが起きている。
物騒な事件と言えば、最近、中国人が大量に流れ込んで来ていて、それが事件を起こしている。12月の中頃に、白昼、繁華街で中国人同士の揉め事があり、ナイフを振り回しての大喧嘩になり1人の中国人が刺し殺されてしまった。犯人逮捕をテレビのニュースで見たが、暴れる犯人を捕り押さえるのにモザンビークの警官は四苦八苦していた。その後の報道では殺された方も、殺した方も身分を証明する物は持っていないとのこと。つまり、不法入国者同士である。
このところ、あまり夜の繁華街には出掛けないでいたが、クリスマスが近づいた頃、友人と久々に出掛けた。繁華街がすっかり様変わりしていて驚いた。白人の親父どもの姿は少なくなっていて、代わりに大勢の中国人が繁華街を闊歩していた。夜も更けて、そろそろ帰ろうかとバーを出たら、道の真ん中で中国人同士が殴り合いの喧嘩している。見るのもアホらしいので友人に「帰ろう、巻き添えにされたら嫌だから」と言うと友人は「面白いから少し見ていく」と言い出す。
「じゃ、その先のバーで待っている」と言いその場を離れた。
しばらくしてから友人はケラケラ笑いながら私の待っていたバーに入ってきた。
「どうした?」と聞くと笑いながら友人は「女の取り合いで喧嘩していた。日本人もあんなことするのか?」と聞いてきた。
「どうして、そう思う?」と逆に尋ねたら「だって同じ東洋人だろう」との答え。
「そんなことないよ、中国人と日本人は違うよ」と答え、それ以上は言わなかった。
東洋から見れば、地の果てとも思われるアフリカくんだりまで来て、同じ国の者同士が殺し合ったり、女の取り合いで人目もはばからずに喧嘩したり、とても普通とは思えない。殺された人も、こんな所で命を落すとはやりきれないだろう。マスコミ報道などで、近年、中国が急激に発展してきているのは分かるが、急激な発展の影の部分が、当地へ流れて来る中国人に見えるのは私だけだろうか。
最近、国連で西アフリカ諸国への中国の援助が相当な金額になり、援助国へ中国人が凄い勢いで押しかけ、まるで植民地のようなことが起こっているとの報告がある。これには中国政府側も必死で弁明しているが、国連も調査に動き出しているそうだ。なにはともあれ、当国にはあまり増えてほしくない国の人達である。
外国人と言えば半年前に知り合ったパキスタン人がいる。当地へ来てまだ1年も経たないが、3年前までは群馬県の前橋市に15年間住んでいたそうで流暢な日本語を話す。
「どうして、こんな所まで来たの?」と尋ねると「違法滞在で強制退去させられた」という。パキスタン人の友人が悪いことしたために巻き添えで入管にばれてしまったそうだ。
「日本は良い国ですよ、人は皆親切だし。悪いことをしなければ不法滞在と分かっていても警察や何かに通報しない。19歳の時から日本にいたので人生一番良い時期を日本で過ごした。日本が良い、後2年経ったら日本へ戻る」と彼は日本を思いながら話してくれた。強制退去の場合5年経過しなければ再入国はできないとのことだ。
そんな話を外国人から聞いて何だか妙に嬉しくなり「今晩、飲みに行こう」と誘い、その夜は久しぶりに飲んだ。
他人には当地のことを「どうして、こんな国に!?」と批判じみたことを言うが、「貴方はどうして居るの?」と聞かれたら、一瞬返答に詰まってしまう自分だ。今年もその答えが出るかどうかは分からない。理不尽なことが日常的に起き、そのたびに怒り心頭に達したり、落ち着いてその馬鹿さ加減を笑ったりして日々を過ごしてしまうことだろう。
毎年、年頭にその年の目標5項目くらいを紙に書いて自分の机に貼り付けて置き、それを戒めにして仕事を続けているが、達成できるのは、1項目か2項目が精一杯で目標には届かない。目標達成率が良くて40%では話にならない。
いつの日にか、目標を達成した時には、おだやかに四季を楽しませてくれる日本へ戻ることをゆっくりと考える時間ができるだろう。

******************************2006.12*
その43 12月になり

 このところ猛烈に忙しく、頭のほうがコラムまで回らず2カ月もご無沙汰してしまいました、申し訳ありません。12月に入り例年のごとく暑いマプートとなっております。
 この暑いなか、営業、打ち合わせ、見積もり、空港への送迎、集金と日々小まめに働いていて、自分でも感心している。
 最近、悟りを啓いたみたいで社員達が何もしないでぶらぶらしていてもあまり怒らなくなった。怒ったり説教をしている時間があれば自分で動いた方が早いし、いらいらしなくて良い。
 仕事を言いつけても言いつけたことしかやらない、それも時間が掛かることこの上ない。先日も午前中から猛烈に暑くなり、外回りから事務所に戻り、はたと気づいたのは自宅の洗濯物である。午前中から暑いと夕方には必ずと言っていいほど雨が降る。一時だが激しくスコールがやって来る。自宅へ戻るのはいつも午後7時頃になるのでスコールが去った後になる。急ぎ自宅へ電話してメイドに洗濯物を取り込んでおくように指示する。毎度のことながら取り込むように指示しないと、洗濯物は雨に打たれびしょびしょの状態でぶら下がっている。
 仕事をしながら自宅の洗濯物の心配をし、犬の菊ちゃんの飲み水や入浴のことまで考えていなければならない。おまけに、以前から社用車のガソリンを誤魔化す輩がいて、うんざりしている。例えば20Lのガソリンを入れてくるようにとその金額を渡すと、実際に入れるのは2Lくらいで20Lの領収書を持って来る。いざ運転する時には、もうガソリンメーターの針が下がっていてガソリンはほぼ空になっている。ガソリンが入っているかどうかは、メーターを見れば誰でも分かる訳で、全く私が馬鹿されているとしか考えられない。
 先日も「ガソリン20Lを入れて、どこそこへ行って来てくれ」と言いつけて、車が戻った時にガソリンメーターを見たら、針は一番下をさし、そのうえ給油警報のランプまで付いている。
「こら、ガソリン入れなかったのか」と怒鳴り散らすと、やおら領収書見せ「20L入れました」とほざく。
「走行距離にして5kmも走っていないのに20Lがなくなるわけはない」と怒鳴っても、「領収書が入れた証拠だ」と言い張る。
 もう許せないと思い、他の社員5名を車に乗せガソリンスタンドまで行き、改めて20Lのガソリンを入れ同じ距離を走った。社に戻って、ほとんど下がっていないメーターを5名の社員に確認させ「さーどうだ、俺の言っていることが正しいか、あいつの言っていることが正しいか、どっちだ?」と問いただした。
 その場では「社長の言うことが正しい」と言うが、社員同士では「めっかっちゃった」くらいの話にしかならない。
 その後、他の社員が私の部屋に来て「内緒ですが、あいつガソリンスタンドの白紙領収書を後3枚持ってます」と言う。
 こんなことが日常茶飯事では惚ける暇もないと、日々仕事に熱中してはいるのだが、最近、体力が落ちて来ているのがハッキリと分かる。58歳にもなって30代後半の体力を出そうというのが無理無体であって、アホな望みと理解している。考えて見れば、後2回正月を過ごすと、大台に乗り赤いチャンチャンコを着せられる歳になってしまう。あーあー嫌だ嫌だと自分自身の衰えに腹を立てている。
 少しは運動をしなければと、昼にNHKテレビが放送しているラジオ体操をしている。最初にテーマ音楽を聞いた時には懐かしく、小学校時代の夏休みを思い出して体を動かすと、何と自然と体が動き間違いなく体操ができた。「三つ子の魂、百までも」と言うが自分でも驚いた。ただ、体に柔軟性がなくなっているので、はたで見ていると音楽に合わせ、へんな踊りを踊っているように見えることだろう。
 9月から当地へ続々と日本の国際援助に関わる方々が入ってきている。学校建築、道路整備、水産関係と職種は様々だが、皆さんとても紳士的な方ばかりで話を伺っていて楽しい時間を過ごせる。皆さん当地モザンビークだけではなく、東南アジア、中南米、南太平洋、南米、等世界中の発展途上国を回っていて色々な話が聞ける。当地へ来るのが3・4回目と言う方もいて、「来るたびに街が変わっている」と驚いている。
 内戦後の復興援助を受けている途上国の中で、モザンビークは最優等生の国と国連から評価されている。このところ毎年モザンビークの経済成長率が7から8%も伸びていると報告されているが、にわかには信じられない数値である。実際に国際援助の下、援助バブルが起きているのは実感として分かるが、一歩地方へ出ると以前の状態の町がほとんどである。
 来年度から日本の援助もマプート近郊だけではなく、首都から2,000km離れた地域での援助工事が始まる。私自身も何度か行ったことがある地方の町で、ほんとに何にもない所で、正直「こんな所でどうやって学校を建てたり、道路を作っていくのだろう?」と思う。
 でも、何とかするのが日本企業で、騙されたり役人に賄賂を取られたりしながらでも完成に持っていくのだろう、と思うと気の毒な感じがしてしまう。
「人を見たら泥棒と思え」という諺があるが、いくらこの言葉が嫌いでも、何でもそう見なければならないのが情けない。
 まぁー何がともあれ、今年も何とか生き永らえたと実感している。

 

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