■作品内容
四国の山里に眠る、ある外科医の墓に刻まれたアインシュタインの言葉。
墓碑銘は、なにを語っているのか? そこに秘められた感動の物語。
欧州航路・北野丸の船上で出会った
天才物理学者と日本人外科医との不思議な縁、
そして戦争によって翻弄された二人の数奇な運命とは!?
★2015年10月、長崎国際テレビ開局25周年記念特別番組で放送決定!
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1922(大正11)年秋、アインシュタインは、日本への講演旅行の途中、
日本郵船「北野丸」の船中で体調不良を訴えた。(癌を疑ったという)。
彼を診察し、回復に導いたのは、たまたま欧州から日本へ帰国するため
同じ船に乗り合わせていた外科医・三宅速(はやり)である。
以後、二人は、お互いの家を訪問しあい、書簡を通じて友情を深めていった。
しかし、海を越えた二人の友情も、第二次世界大戦の勃発によって途絶え、
三宅速は妻と共に岡山空襲の犠牲となった。
力及ばず両親を亡くした失意の息子・博は、戦後、アインシュタインへ
父の死を知らせる。
やがて送られてきたアインシュタインの手紙には、英語とドイツ語の墓碑銘が
同封されていた。
「ここに 三宅速と その妻 三宅三保が眠る。
彼らは共に 人類の幸せのために尽くし そして 共に その人類の過ちの 犠牲になって逝った。
米国プリンストンにて 一九四七年三月三日
アルベルト アインシュタイン」
日本を愛し日本人を慈しんだ天才アインシュタインと医学を通して日欧の橋渡しに
貢献した日本人外科医にとって、戦争とは何だったのだろう。
ナチス・ドイツのホロコースト、米軍の一般市民への無差別爆撃、原爆投下、
そして九大生体解剖事件…、
近代史の暗部に踏み入り、戦争と平和の意味を現代に問い直す渾身の著。
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【写真について】
(上)欧州航路「北野丸」船上で談笑するアインシュタインと三宅速(1922年10月)
(右)三宅速没後9年を経て、速の故郷に建てられた速夫妻の墓と著者。
墓碑銘は、アインシュタインから贈られたもので、アインシュタインの
手書き文字が刻まれている。(徳島県美馬市・光泉寺)
【著者紹介】
長崎市生まれ。エッセイスト、ノンフィクション作家。「船上のドクトル」「線路の果て
に」「はっけよいのこった」など7編ののエッセイが、毎年発行される『日本エッセイス
トクラブ編・ベストエッセイ』(文藝春秋)に収録されている。主な著書に『引導をわた
せる医者となれ』(春秋社)『航跡』『たったひとりの卒業式』(共に中央公論新社)
『がんを病む人、癒す人』(中公新書)など。最近では医療・医学史などへの執筆
活動から講演依頼も多い。
【書評から】
徳島県の旧三島村舞中島にある光泉寺の境内に大きな墓があり、アインシュタイン
の肉筆で書かれた文章とサインが入ったドイツ語の碑文が刻まれている。
なぜ、この地にこのような墓碑があるのだろうか。
1922年にアインシュタインが「北野丸」で日本を訪れたとき、マルセイユから神戸
までの欧州航路に同船していたのが九州帝国大学医学部教授の三宅速であった。
その航海中、二人は船上で親しく会話を交わし、後々まで互いに文通して友情を
深め合った。そして、アインシュタインがナチスドイツを逃れてアメリカに去った
とき音信が途絶えた。
本書は、三宅とアインシュタインの交友の経過と三宅一家の戦中の苦難を中心にし
つつ、アインシュタインが墓碑銘を書くに至った経緯がまとめられている。著者が
三宅の孫であるだけに、その思い入れも一入(ひとしお)で、私も本をおいてしば
らく物思いに耽った。
(「読売新聞」2009年9月27日 評・池内了)
◆
(前半部略)
そして圧巻が第4章のなかの岡山大空襲の情景である。1945年6月28日の深夜、
B29の大編隊による大空襲に見舞われ、市街の大半が焼失、同市のシンボル岡山
城も天守閣から真っ赤な炎を噴き出して崩れ落ちたが、何よりも速・三保夫妻が
防空壕内で戦災死する悲運に見舞われており、当夜の悲惨な状況に胸を打たれる。
(以下、略)
(「Medical journalist」2010年3月 評・伊藤正治)
◆
(前半部略)
月並みな表現しか思いつきませんが、医学生、医師、研究者を問わず医学生命
科学を志す者全てにとって必読の書であると思いました。
外科医三宅速の時間軸で読むか、アインシュタインの時間軸で読むか、あるいは
戦争に翻弄される人々の営みで歴史を読み解くのか、あるいは外科や自然科学の
歴史の光と影を読むのか……。読む者の感性で幾通りもの感慨が沸沸と沸いてくる
不思議な著書です。これは筆者の簡潔明瞭な文章と巧みな構成によるものだけでは
なく、なによりも著者が幼いころに一度は封印した疑問を何年もかけて後苦労されて
丁寧に紐解いていったライフワ−クだからでしょう。
(「慶応義塾大学医学新聞」2009年9月25日、評・医学部長・末松誠)
◆
13歳の少女がアインシュタインのサインが彫られた祖父母の墓を見る場面で始
まる。墓に眠るのは、外科医・三宅速(はやり)とその妻。
アインシュタインが1922(大正11)年秋に日本へ招待された際、ヨーロッパから
日本へ向かう船で出会った。速と日本での講演の合間にアインシュタインは三宅
の家を訪れ、のちに文通が続く。
引退後、三宅速は息子の赴任先だった岡山に身を寄せ、空襲で亡くなった。
二年ほど経てGHQの医官を通して息子が働きかけ、墓碑銘となるアインシュタ
インの言葉が届く。「人類の幸せのために尽くし」「人類の過ちの犠牲になって
逝った」と夫妻の死を悼んでいる。(以下略)
(「サンデー毎日」2009年8月16日号)
◆
「博士と日本人外科医との友情」
徳島の小さな寺に、天才物理学者・アインシュタイン博士の言葉が刻まれた墓碑
がある。その墓に眠るのは、日本の外科学会の開拓者といわれる三宅速(はやり)
医師と、妻の三保さんである。1922年、船上で偶然にも三宅医師が博士の急病を
治療したことから、彼らは親交を深めていった。しかし、第二次世界大戦の勃発に
よって、その友情は引き裂かれてしまう。ホロコースト、米軍の無差別爆撃、そして
原爆投下と、戦争に翻弄された不思議な縁と運命を、医師の孫である著者が
つづる。 (「日刊ゲンダイ」8月7日)
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