ウッドストックの森から


                                        小手鞠るい

 出窓社の読者のみなさま こんにちは!
 ニューヨーク州ウッドストックの森のなかで猫と暮らしている小手鞠るいです。
1992年からアメリカ東部に住んでいます。 この間のいきさつについては、出窓社発行の「ノルウェーの森の猫」と「ウッドストック森の生活」にくわしく書きました。
ご興味のある方はどうぞ読んでみてください。
 さて、ここでは毎回ひとりかふたり、私がどこかで出会っ
たり、知り合ったりしたアメリカ人を紹介しながら、日本には
意外と知られていないアメリカ人の素顔、アメリカ人の本音
と建て前、アメリカ人の考え方、人生観、性格などを、私の
皮膚感覚や、日常レベルに置いた視点を大切にしながら、
できるだけヴィヴィッドにお伝えしていきたいと思っています。
 また、ウッドストックの森の仕事場で、日々生み出されていく私の作品の話や、
仕事のようすなども、お伝えしていきたいと思っています。
 読者のみなさまからのご質問、おたよりをお待ちしています。

******************************2007.12*
最終回 「また会えるよね」

 出窓社の読者のみなさま、こんにちは。
 2003年から、4年以上にわたって、書き継いできたこの連載エッセイ、58回目の今回で、最終回とさせていただくことにしました。
 連載中、心あたたまるメールや励ましのメッセージなど、多数いただきました。心よりお礼を申し上げます。また今年(2007年)は、書き下ろし作品のほかに、連載の仕事を複数抱えていたため、前回のエッセイを書いてから今回の更新まで、長い時間が空いてしまったことをお詫び致します。

 1992年に渡米し、1993年に『海燕』新人文学賞を受賞して、物書きとしてスタートラインに立ったわけですが、1995年に『海燕』が廃刊となり、それ以降、アメリカに住んでいることも影響してか、小説発表の場が得られないまま、いたずらに時が流れてゆきました。年に一度か二度、小説の原稿をたずさえて帰国し、あちこちの出版社の編集者の手にゆだねていたのですが、どうしても出版には至らなかったのです。
 2004年に『欲しいのは、あなただけ』が出版されるまで、いわゆる「苦節10年」を過ごしてきました。自分から働きかけていかない限り、仕事の依頼は皆無に近く、小説は書いても書いてもボツ原稿となり―――

 出窓社から出していただいた2冊のエッセイ集『ノルウェーの森の猫』と『ウッドストック森の生活』は、そうした時期に書かれた作品です。この2冊は、苦節時代の私の心のよりどころであり、永遠に、私の創作活動の原点であり続けるだろうと確信しています。
 その後2005年に『欲しいのは、あなただけ』が島清恋愛文学賞を受賞、翌年『エンキョリレンアイ』が刊行されてから、はっきりと風向きが変わりました。仕事の依頼が加速度的に増えてゆき、現在は2年後、3年後まで、私のカレンダーは〆切と刊行予定で埋まっています。
 苦節時代がまるで「夢の跡」のように思えます。
 けれどもこの苦節10年は、必要不可欠な時代であった、と、今の私にはわかります。この時期に経験したこと、感じたこと、考えたことのすべてが、大から小まで、現在の創作に生かされているからです。言いかえると、この10年なくしては、私の作品は存在し得ないとも言えるでしょう。

  「一期一会」という言葉よりも、私は「再会」という言葉が好きです。
 わたしは、ここにいる。
 あなたも、ここにいる。
 わたしたち、また、会えたね。
 これが、私の全作品に共通する、たったひとつのテーマです。
 いつかまた、作品のなかで、みなさまに「再会」できたら、こんなに嬉しいことはありません。
 長いあいだのご愛読、本当にありがとうございました。

******************************2007.04*
その57 若葉の季節に、ブックツアー

 数年前、野球の発祥の地として知られるクーパーズ・タウン(ニューヨーク州北部にある小さな町です)を訪れたときのこと。
 白、紫、ピンクなどのライラックの花の咲き揃う美しい季節。
 町ではその日「若葉のフェスティバル」が催されていた。
 野球の殿堂と野球博物館(ここには、イチロー選手のバットや野茂投手のボールなども展示されています)の前の通りには、テントや屋台がずらりと並び、野球関連のさまざまなグッズが所狭しと並べられていた。
 掘り出し物や宝物探しに目を光らせている野球少年や野球中年(老年もいました)たちに混じって、ひとつひとつのコーナーを覗きながら歩いているうちに、私と夫はちょっと変わった一角にたどり着いた。
 そこには、私が小・中学生だった頃、学校で使用していたような一人掛けの勉強机と椅子が等間隔で並んでいて、机の上には新刊本がどっさり積まれ、その前には必ずひとりの人が座っている。
「ああ、ブックツアーだな」
 と、夫が言った。
 新刊のテーマはもちろんすべて、野球。
 そして、その前に座っているのは、本を書いた著者本人で、彼らは自分の本を売るために、このフェスティバルに「行商」に来ているというわけなのだ。訊けば、この日のためにわざわざ西海岸からやって来た人、南部から、中西部から、みんな全米からはるばるここに駈け付けてきたという。アメリカでは、作家がこうした自著の行商の旅、ブックツアーに出るのは一般的なのだそうだ。
 しばらく観察していると、作家たちは、立ち止まって本に目をとめ、手に取ってくれる人たちと、実にフレンドリーに、親しげに会話を交わしている。本を実際に買っていくのは、十人にひとり程度だったか。でも、同業者として、それは見ていて心のなごむ、人ごとながら、心の踊るような光景だった。
 本を書き、出版された本を自分で売りに行き、そこで買い手である読者と出会い、話し、買ってくれた人には求められればサインをし、握手をして、本の代金をもらう。
 いわば「作家業」という仕事、あるいは商売の原点、とでも言えばいいのか。素朴な売り買いの現場。それが私の目の前で繰り広げられている、という気がした。
 ともすれば、出版されたら作家の仕事は終わり、と思ってしまいがちだけれど、それは違う、と今の私は思っている。
 途方もなく長い、飛行機の旅を執筆にたとえるならば、その長旅のあとには旅先の国、その国で暮らす人たちに出会いたいし、触れ合いたい。
 本が売れていく瞬間、買ってくれる人、読んでくれる人の顔を、じかに見ることのできる機会というのは、作家にとって非常に貴重な場所であり、時間だと思う。

 そんなわけで、この私も5月中旬に、日本にブックツアーに出かけることにした。
 今年の3月に出した、カタカナ恋愛小説三部作の第2弾『サンカクカンケイ』に好評をいただき、東京では吉祥寺のリブロさんから、京都では昨年と同じアバンティブックセンターさんから、サイン会に呼んでいただいたのだ。これはもう、地球の反対側に向けて、13時間も飛行機に乗っていなくてはならない長旅になるけれど、馳せ参じないわけにはいかない。
 いったいどんな人たちが、私の作品を読んで下さっているのか、なけなしのお小遣いをはたいて本を買って下さっているのか、まるで、初めてのデートかお見合いか、はたまた、なつかしい旧友と再会できる同窓会に出席するような気持ちで、若葉の季節のブックツアーに出ることにする。

******************************2007.02*
その56 新潮文庫になった「かもめちゃん」

 3月1日、恋愛小説『欲しいのは、あなただけ』が新潮文庫となって発売された。
 私にとって、初めての文庫本である。
 実は「文庫本の出版」というのは、『海燕』新人文学賞をいただき、小説家としてスタートして以来、心の中で「いつか、必ず、実現させたい」と願いつづけてきた、ひそかな目標であり、大きな夢でもあった。長い時間―――およそ14年―――がかかったけれど、今は夢が現実のものとなって、本当に嬉しい。
 単行本『欲しいのは、あなただけ』が出たばかりの頃、書店で1冊売れた、2冊売れた……と、編集者と一緒になって一喜一憂していた頃が、今となっては懐かしい。
 島清恋愛文学賞の候補になっているという知らせを受け取って、「でも、落選したらどうしよう」とネガティブなことばかり考え、思い煩っていた日々でさえ、なんだか微笑ましく思える。
 ご存知の方も多いかと思うが、文庫本というのは、単行本の売れ行きがかんばしくなければ、出版されることはない。単行本の出版よりも、そのハードルは高いと言ってもいいのではないだろうか。
 そんなわけで、この文庫、とっても小さな、軽い可愛い1冊ではあるけれど、まるで私の人生に、太い頑丈な柱が立ったような、そんな力強い1冊となった。
 解説を書いて下さったのは、敬愛してやまない作家、大崎善生さんである。
 私が大崎さんの作品のファンであることから、編集者にお願いして、解説を書いていただいた。

 この物語の主人公の名を、「かもめ」という。
 かもめが、私のもとにやってきたのは、1994年のことだった。
 私は当時、イサカという学園町で暮らしていて、あるうららかな昼下がり、仲良く付き合っていた友だちと一緒に、湖のほとりでピクニックをしていた。
 サンドイッチとポテトチップスを食べ、アップルサイダーを飲みながら、とめどなく、愉しく、尽きないおしゃべりを楽しんでいた。この仲良しの友だちとは、何を隠そう、人気作家の野中柊さんなのである。
 私たちは、好きな作品のこと、作家のこと、お互いに、これからどんな作品を書きたいか、書こうとしているのか、小説論、文学論などについて、熱く、熱く、熱く、語り合っていた。
 と、その時、一羽のまっ白なかもめが、私たちのピクニックテーブルのそばに、ふわっと舞い降りてきた。
「あ、かもめ!」
 と、私たちは声を上げた。
 かもめは海だけではなくて、湖にも住んでいるのだということを、その時初めて知った。ふたりして、しばし、その姿に見とれていた。かもめは無心に、夢中で、すぐそばに私たちがいることも恐れず、芝生の上に落ちているパン屑やポテトチップスの欠片をついばんでいた。優雅で優美、優しげで儚げな外見をしているけれど、案外、強くてたくましく、烈しい気性の持ち主なのかもしれない、などと思いながら、私はその白い鳥を見つめ続けていた。
 なぜか、その鳥の有り様に「恋」というものを、重ね合わせていた気がする。
 あるいは、恋の情熱、欲望、といったようなものを。
 突然空から舞い降りてくるのも恋なら、一心不乱に貪ってしまうのもまた恋、ではないだろうか。
 かもめは食事を終えると、ふっと私の方を見た。かもめの目と私の目が合った。その瞬間『欲しいのは、あなただけ』の主人公「かもめ」が誕生したのである。
 私の耳は今でもはっきりと、かもめの声を、言葉を、記憶している。
「わたしのことを書いて」
「あなたのよく知っている、わたしのことを書いて」
「あなたなら、書けるでしょう。だって、あなたは、かもめなのだから」
 かもめは私に、そう言ったのである。
 あれから十三年が過ぎて……、まっ白なかもめは再び、私のもとに飛んできた。美しい文庫本となって。
 これからも私は、私自身の羽根を一枚、一枚抜き取りながら、その羽根で丹精籠めて、織り上げていきたいと思う。
 私の物語を。
 かもめの物語を。
 優しくて烈しい、恋の物語を。

******************************2007.01*
その55 死者の魂に導かれて

 幸福というかなしみ、喪失というゆたかさ。
 2006年に6月に出版された『愛を海に還して』の帯に、角田光代さんが寄せて下さった言葉である。私にとって2006年は、まるでこの言葉を味わい、味わい尽くすために過ごしたような一年だった。
 年末年始は、2007年3月1日に刊行される予定の『サンカクカンケイ』のゲラを読みながら過ごした。「愛する存在を失った経験を持つ、すべての人たちに捧げる」作品である。
 この作品の前作にあたる『エンキョリレンアイ』を出したあとで、膨大な数の読者の方々から、さまざまな形でおたよりをいただいた。
 その中にちらほらと、こんな感想の言葉を見かけた。

 この小説の中ではたくさんの「人が死ぬ」ので、リアルではない。

 きっとまだ一度も、身近で親しい人を亡くした経験を持たない、若い人なのだろうか? いや、年齢は関係ないのかもしれない。人の死や喪失を「現実ではあまり起こらないこと」と、錯覚している人なのか、あるいは、喪失の悲しみを悲しみとして感じることのできない人なのか(そのことを批判するつもりは毛頭ないけれど)。
 なにはともあれ、現実でも小説の中でも、誰かが死ぬということほどリアルなことはないし、死や死者の全く出てこない小説ほど嘘っぽい作品はない、と、私は思っている。
 だいたいこんなこと、小学生でも、幼稚園児でも、わかることではないか。
 たとえば朝、新聞をちょっと見ただけでも、そこには多過ぎるほどの「死」が在る。
 今、私がこの文章を書いているこの瞬間にも、人は死んでいる。虫や鳥や動物はもっとたくさん死んでいる。私たちの現実は、死と死者に取り囲まれているのだ。これが全く見えない人、全く感じられない人というのがいるのだとすれば、なんと鈍感な人だろう。もしかしたら自分が今、生きているということにも、鈍感になっているのかもしれない。

 昨年の暮れ、ふとしたきっかけで、『ふれていたい』について感想を書いて下さっている読者の方のブログに巡り会った。
『ふれていたい』に登場する人物のひとりは、膠原病という難病で亡くなってしまうのだけれど、その読者の方は、膠原病を抱えて生きている方だった。彼女は書いていた。

「わたしは作者に願いながら、読んだ。この人を殺さないで下さいと」
(正確な引用ではありません)。

 その1行を読んだ時、私は胸を突き刺されたような気持ちになり、慣れないキーボードを必死で打って、この人に返事のコメントを送信した。

「本当にごめんなさい。実は私の親友に膠原病と果敢に闘っていた人がいて、私はどうしても亡くなった彼女のことを、この作品の中に書き込んでおきたかったのです」

 私はどの作品にも、亡くなった人たちのことを、書かせていただいている。深く付き合った人もいれば、ただすれ違っただけのような人もいる。それぞれの人に最もふさわしいと思える形にして、彼、彼女が好きだった洋服を着せて、可愛い名前、かっこいい名前を付けて、私はその人たちのことを、作品の中に書く。なぜなら、その人たちは確かに「生きている」と思えるから。

 これは私の真実の思いであり、昔も今も、これこそが私が小説を書く動機であり、物語を紡ぎ出したい理由のすべてであり、執筆の原動力のすべてである。
 だから、私の小説のテーマはひとつしかない。

 また、会えたね。
 わたしは、ここにいる。
 あなたも、ここにいる。

 私は常に、死者と共にこの世界に在る。そう確信している。この確信こそが「人としての幸福」であると感じている。そして、死者の魂、死者の声を表現していくことが、私の仕事であり使命であり生き甲斐だと思っている。
 亡くなった人たちの大いなる魂の存在を感じる時、私は、この世の中に生きてある者たちの、日々考え、悩んでいることの些末さ、卑小さ、醜さに気づかされる。死者の世界には、裏切りも憎しみも嫉妬も、苦悩も煩悩も、欲望も希望もない。思考や時間や記憶さえ、ない。あるのは、生まれたばかりの命の輝き、澄み切った心、だけなのである。
 幸福というかなしみ。喪失というゆたかさ。
 2006年はそのことを実感することのできた、大きな大きな1年だった。
 今年も清らかな死者の魂に導かれて、静かにゆっくりと一歩ずつ、私も死へと続く永久なる道を歩いて行きたいと思う。

******************************2006.11*
その54 私の『ふれていたい』もの

     12月1日に『ふれていたい』(求龍堂)が刊行された。
 これは2006年に出た最後の単行本であり、恋愛小説である。3月の『エンキョリレンアイ』を皮切りに、『あなたとわたしの物語』『愛を海に還して』『空と海のであう場所』が続き、そして、5冊目がこの『ふれていたい』。紅白歌合戦でいうと、トリということになる。
 ところで、年に5冊というのは、私にしてみれば、大豊作。今までは年に1冊か、多い年でも2冊の刊行にとどまっていた。もちろん1冊も出せなかった年もあったし、さまざまな挫折と失望の波に呑まれて溺れそうになり、小説家として進んで行くことを、半ばあきらめかけていた時期さえあった。
 今年、5冊も出せたということ以上に、私はこうして、これからもずっと、地道に作品を書き続けて行くことができるようになったということを、何よりも嬉しく感じている。

『ふれていたい』は、かつてフィギアスケートでペアを組んでいたことのある、若いふたりのみずみずしい初恋の記憶に、少しだけ大人になった主人公の初めての恋を織り込んだラブストーリー。暖色と寒色の、二色の毛糸で編み上げた一枚のセーターみたいな、ふんわりとあたたかい物語である。
 この作品を担当してくれたのもまた、私にとっては「妹」、いいえ年齢的には「娘」と言ってもおかしくないような、若くて、初々しくて、キュートな「女の子」編集者だった。
 名前を、鷲見えり(すみ・えり)さんという。
 タイトルは当初、私の方で『ワイングラスの海』と付けていた。十九歳の女の子(主人公)というのは、ワイングラスのように繊細な面と、海のように豊かで力強い面を持ち合わせている、と思っていたから。
 春のはじめ頃から本格的に仕事に着手し、何度も書き直しをくり返している最中、鷲見さんからメールが届いた。そこには、この作品のタイトルを『ふれていたい』と変えたいのですが、いかがでしょうか? という提案が記されていた。

 なぜだか、わからないのですが、原稿を一生懸命読んでいる時、
 まるで天から舞い降りてくるように、
 このタイトルがふっと私の中に芽生えました。

 正確な引用ではないが、こんな文面だったと記憶している。
 実は私も彼女のメールを読んだ時、「なぜだか、わからない」けれど、瞬間的、直感的にこの言葉、このタイトルが気に入っていた。
 しかし、タイトルは気に入ったものの、それから長い時間をかけて原稿を推敲していく過程の中で、私はどうしてもうまく、物語を新しいタイトルに結び付けることができないまま、暗中模索の日々を送っていた。やはり、途中でタイトルを付け替えるというようなことは、してはならないのかもしれない、と思ったりもした。
 主人公が『ふれていたい』ものとは、なんだろう?
 過去の恋のビタースイートな思い出?
 それとも現在の恋人の優しい手のひら?
 もちろん、どちらもイエス、には違いない。
 なのだけれど、それだけではこの物語はこのタイトルに昇華されない、言い替えると、この物語は『ふれていたい』という小説―――世界でもあり宇宙でもある虚構―――として、立ち上がってこない。この小説が生きて呼吸して、笑って泣いてはくれない。
 私は毎日のように考え続けていた。
 主人公は、そしてこの私は、いったい何に『ふれていたい』のか。

 そんなある日のことだった。
 その前に―――詳細についてはここでは説明を省くが、私は最近「この世で私が最も愛していた存在」を失うという体験をした。おそらく、これ以上の悲しみはこれから先、一生、経験することはないだろうと断言できるほど、それは悲しみを遥かに超えた、悲しみだった。今、この文章を書いていても、私の頬を自然に涙が伝ってゆく……。
 「ある日」に話をもどして―――それは、今年の夏のことだった。
 キイボードの上にぽたぽた涙をこぼしながら、私は原稿の最終推敲をおこなっていた。「愛する存在」は私のかたわらで、迫り来る死期を目前にして、それでも希望を失わず、懸命に重い病と闘っていた。そんな姿を目の当たりにしながら、私は為す術もなく、泣き暮れていたのである。
 涙で曇った目をこすりながら、パソコンの画面と「愛する存在」をかわるがわる見つめていたその時、ふっと、何かが、空からふわっと舞い降りてきた、そんな気がした。
 言葉にしてしまえば、たったこれだけのことではあるけれど、それは稲妻にも、暁光にも似ていない、かすかではあるが非常に澄み切った、ひと粒の光のようなものだった。外側からではなく、内側に、私はそれを感じた。これは特別な現象ではなくて、誰にでも日々、起こっていることなのではないかと思う。ただ、それに気づく人と、気づかない人がいる、というだけのことで。
 とにかく、鷲見さんのメールに書かれていたのと、まったく同じことが、私にも起こったのである。
 その瞬間、私には「すべてが見えた」と思った。
 明晰な光に照らし出されて、この物語の、すべてが見えた。
 主人公が『ふれていたい』ものが、今、わかった。
 この小説が、理解できた。そう確信できた。
 それが『ふれていたい』が誕生した瞬間だった。

 私がふれていたいもの。  そして、主人公が『ふれていたい』もの。それは、亡くなったすべての人たち、今は亡きすべての愛しい存在たちの、清らかな魂にほかならない。
 私はこれまで長いあいだ、自分の作品の中で、「魂」という言葉を使うことができないでいた。自分が理解していない言葉を、使うわけにはいかないからである。
 けれども、これから私が書く作品の中には、「魂」という言葉が現れるだろう。
 小説を書いていると、いつも人智や理性を超えた不思議な出来事が起こる。
 誰がなんと言おうと、私はこう思っている。鷲見さんの肩の上に、ある日ふっと舞い降りたタイトルは、私の「愛する存在の魂」の為せる技だったのだと。
『ふれていたい』を、私は、愛する者を亡くした経験を持つ、すべての人たちに捧げる。

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【プロフィール】

小手鞠るい(こでまり・るい)


 1956年岡山県生まれ。小説家・エッセイスト。1992年からアメリカに移住し、現在、ニューヨーク州・ウッドストックの森の家で、夫グレンと猫のプリンと暮らしている。
 1993年、アメリカから文芸雑誌「海燕」に応募し、第12回海燕新人文学賞を受賞。 主な著書に、『玉手箱』(ベネッセコーポレーション)、『科学者レイチェル・カーソン』(理論社)、『ノルウェーの森の猫』、『ウッドストック森の生活』(いずれも出窓社)、『それでも元気な私』(新潮社)、『アメリカ人を好きになってわかったこと』(文香社)、『エンキョリレンアイ』(世界文化社)などがある。
 近年は、恋愛小説に新境地を開き、2004年に上梓した『欲しいのは、あなただけ』(新潮社)で、第12回「島清恋愛文学賞」を受賞。
 近刊には『あなたとわたしの物語』(徳間書店)と『愛を海に還して』(河出書房新社)『空と海のであう場所』(ポプラ社)『ふれていたい』(求龍堂)がある。

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